「Sad Song」ザ・ルースターズ(1983)

ルースターズはそれそのものだけでも十分ドラマを背負いすぎたバンドなのですが、同時代で彼らの音楽に接した人たちひとりひとりが皆それぞれに、自分自身のドラマを彼らの歴史や楽曲にからめているというところがあるように思います。私もそうです。彼らの名前がいつまで経っても癒えない傷のようにそこにあり続けているのはそういうわけなのでしょう。
ロック大好き人種が集まる場に身を投じるという憂鬱に耐え、今年の苗場に私を向かわせたのは、いまだ疼き続けるこの傷を何とかしたいという気持ちと、そして彼らに勝手に背負わせた私自身の青臭いドラマを、彼らが生で演奏する楽曲の数々でもう一度甦らせたいという感傷だったのかもしれません。

ああ、今大江が生で歌う「Sad Song」を聴いたら、人目もはばからず私は号泣してしまうかもしれない。

フジロックのステージで、彼らは「Sad Song」を演奏しませんでした。
今になってさえ「Sad Songで泣く自分」というドラマをこしらえ、それを彼らが具現化してくれることを勝手に期待していた自分に気がつき、モッシュピット内で肉体は狂乱しながらも、心はどこかしんと醒めていました。
すっかり復活した「今」の大江が目の前にいる。・・・彼らにも私にも長い時が流れたという事実はそれでも、悲しかったり虚しかったりするものではなく、むしろ静かに誇らしくさえありました。生きてこられたからこそ今この場にいられる自分。
生きて私たちの前に戻ってきてくれた大江。

苗場を後にし、いつもの生活に戻った頃、フジロックでのあのステージがルースターズの解散ライヴだったという、何とも取ってつけたようなニュースをWeb上で目にし、わかっていたとは言うものの、改めてそう言われるともう一度脱力するものがありました。
あのメンバーが揃っての「Sad Song」を聴くことはもうないのだ。でも、それでいいのでしょう。
「今」の自分が「今」の大江と声を合わせ、力まかせに「C!M!C!」と叫ぶことができた。それだけで、もう十分と言わなければならないのです。きっと。