「えりあし」aiko(2003年)

銭湯など、公共の場で肌をさらすような場所には昔から「入れ墨お断り」と書いてあるものですが、ファッション目的のタトゥーが台頭して以来、なかなかこの辺の事情がややこしくなっているという話を聞いたことがあります。
要はちょっとしたお洒落アクセントのつもりで、尻なり何なりに蝶々を彫っただけなのに、旅行先の温泉で入湯を断られた、差別だ、プンスカ!というわけです。
そうやって「そうよね、おかしーよね?差別よね?」とキレまくるお方には、そもそも「入れ墨を入れる」という行為が「私はこれから裏の社会で生きて参ります」という決意表明であるという認識などあるはずもないでしょう。
ちょい悪テイストを醸し出すべく入れたはずのタトゥーを盾に、ひるがえって社会の被害者気取りとは何ともどっちつかずなこと。申し訳ありませんがダサいとしか言いようがありません。

前振りが長くなりましたが、このaikoという女の子(オーバー30は承知であえて言う)には、目には見えぬ「覚悟のタトゥー」というべきものを感じます。
顔も声も、動きも、着ている服も、とにかく何もかもがふわふわと可愛らしい彼女だけに、私がそんなことを言ったところで、何のことだかわからない方のほうがずっと多いことかと思います。
しかしこの「えりあし」で、彼女は自らのそんな「実は『ど』のつくハードボイルドな属性」を、うっかりなのか意識的なのかはわかりませんが、手の内からぼろりと零してみせているんです。
「目をつむっても歩ける程よ あたしの旅」。いや、言ってくれたものです。彼女自身の可愛さにごまかされて何だかロマンチックなフレーズに聞こえますが、これぞまさにアウトロー宣言、要はひとりの女の子が

「わしゃーこんなんしてひとりで生きてきたし、これからもそや。
このジンセー、目ェつぶっとっても歩けるがな」

と、吐き捨てるようにドスを効かせてつぶやいているんですから。
彼女の背中にはさしずめ、見えないタトゥーが施されているのだと思います。いやタトゥーなんてものじゃないな。むしろ阿修羅だの迦陵頻伽だのといった「モノホン」の凄みを感じます。
彼女はそれを、引き出しの中から引っ張り出したファンシーで上質なランジェリーをとっかえひっかえ身にまとうことで、生涯誰の目にも触れさせることはないのでしょう。

さて銭湯におけるファッションタトゥー問題ですが、あれはとにかく人目に触れないよう「隠して」いただければ問題ない、ということになっている様子です。
そうやってちゃんと逃げ道があるわけですから、大人しく絆創膏なりサロンパスなりでその時だけ隠せばいいものを、カタギにもちんぴらにもなれないどっちつかずな方々ほどギャーギャー騒ぎ立てるのかと思うと、何やらあわれな気すらして参ります。

aikoちゃんを見なよ、と言いたいところです。
身の内に渦巻くノワール属性を、ふわふわと可愛げに装うことで、表に漏れ出ぬようがっちりガードしておられる様こそ、本物の風格。一匹狼を気取るならこのぐらいの覚悟がなきゃいけません。

「生きがい」由紀さおり(1970年)

別れた男性のことを胸にとどめ、「私は今でもあなたと生きているの」という女性の心情が、ちょっと童謡めいた素朴なメロディーに乗せて歌われています。
この歌のことを考えると、バランスというのは本当に大事だなとしみじみ思います。「別れたけど好き」という主張は、扱いを一歩間違えれば簡単にどろどろしたものになりかねません。
ここに演歌調のメロディーをつけ、さらにはヒロインを「北」へでも向かわせれば、そんじょそこらによくある流行歌謡の一曲に過ぎないことでしょう。けれどこの、ふんわりと可愛い音世界の中でそれが表現されることによって、さじ加減を間違えれば怨念に転ぶはずの情念が、女なら誰しも生得的に持っている尊い聖性にまで昇華され、この歌を特別な一曲にしているのです。

ところで、個人的に「生きがい」は2番の歌詞にぐっときます。
夕暮れ時、ヒロインの脳裏にふと、街を歩く別れた男性の現在の姿が浮かび、彼女はその面影に、ねえ、どこへ向かっているの、とそっと問いかけます。
まあ一種の遠隔透視です。人を愛すると、特に女性の場合感応力が高まって、このような超能力に近い現象をさらりと実現してしまうというのは、大いにありうることではないかと思います。
対して、こうして遠隔透視されている当の男性の方はどうか? という話なのですが、女性の方が愛することによって聖性に手が届いてしまっているのに対し、そんな無償の愛を向けられた男性の方は、もーびっくりするほど「何にも考えてない」んじゃないかという気がするのです。
人ごみの中、足早に歩く彼の頭の中には、残念ながら彼女のことは去来していないでしょう。そればかりか考えていることといったらせいぜい、「あー腹減ったな、ちょっと早いけど牛丼でも食ってくか」とか、ホントーにその程度のことでしかないんじゃないかと思われます。
でもこれは、「だから男はダメなんだ」っていう話じゃないんです。だ・か・ら・こ・そ! 泣かせるのです。
何にも考えていない、そんな素朴な彼だからこそ、もしかしたら出会うまでは単なる普通の女性に過ぎなかった彼女が、彼を愛することによって、女性としての本来の愛情深さを胸の中から掘り起こされたのではないかと。

「生きがい」という歌がいつの日も変わらず私の心をふるわすのは、私の内にもひそんでいるそうした神話的、根源的な女性性というものに、この歌が優しく手を伸ばし、気づかせてくれるからではないかと思うのです。

「夜間飛行」 ちあきなおみ(1973年)

公の場から完全に姿を消し、今やすっかり神格化された感のあるちあきなおみですが、私が子供の頃、まだ当たり前にテレビの中で見ることが出来た時代の彼女は、何かもっと軽妙というか、子供心にも「彼女が出ていれば楽しい」と感じさせるような存在だったような気がします。
今でもはっきり覚えているんですが、とある公開歌番組で彼女が「夜間飛行」を歌っている時、天井から吊られた巨大な「ヤカン」が彼女の頭上をゆっくりと通り過ぎていくのを見て、ヤカンが!ヤカンが飛行してる!!と言って、一緒に見ていた母親と大笑いした記憶があります。
今となっては信じがたい、身もフタもない演出ではありますが、とにかくそういうことを許す雰囲気(悪い意味でなく)が、その頃の彼女には確かにありました。
ショービジネスの世界を去った悲しい事情といい、歌手としての圧倒的な力量といい、神格化されてしまう条件は完全に揃っているし、そのこと自体に何らの異議もあるわけではないのですが、私の中にほんのりと残っている、

「ゴージャスないでたちで歌もめちゃめちゃうまいんだが、ちょっととぼけた味のある女の人」

という彼女のイメージも、個人的にそっと大切にしたい気がします。
そしてそんな彼女を思い浮かべるとき、私の心に流れるのは、紅白出演時の強烈なパフォーマンスで伝説になった「夜へ急ぐ人」でも、レコード大賞を獲った「喝采」でもなく、この「夜間飛行」なのです。

「ハリウッド・スキャンダル」 郷ひろみ(1978年)

作詞・阿木耀子さん、作曲は都倉俊一さんという、セレブ感漂う珍しいペアの作品です。
都倉俊一さんというと一世を風靡したイメージがありますが、カラオケであれこれ歌っていてもなかなか「作曲・都倉俊一」のクレジットにお目にかからないのが不思議だなと思っておりました。
よく考えたら、あっちこっちにまんべんなく曲を提供するタイプの人ではないのですね。そのかわりピンク・レディー山本リンダの一連のヒット曲がみんなこの人の作品だったり、百恵ちゃんの初期作品(阿木 - 宇崎ペア以前)もほとんどがそうだったりと、なるほど都度場所を変えつつ、ひとつところでばしばしヒットを放ってきたのだなということに気がつきます。

育ちが良くてスマートで女にモテて……、そうした彼の超エリート的たたずまいは、楽曲にもそのまま反映されているなというのが、昔からの私の印象でした。
何と言うかクラシック音楽をばっちり学んだ人が、

「ポップミュージック? ええっと、こんな感じでいいの?」

とばかり、手クセでさらさらっと書いて、しかもそれがちゃんとよく出来たポップミュージックになっているという、言ったらまあ、言葉は悪いですが「イヤミなかっこよさ」を感じていたものです。地に降りてきてもなお「あちら側」の気配を漂わせていると言ったらいいでしょうか。

しかしこの「ハリウッド・スキャンダル」に関しては、その真の上流ぶりが遺憾なく発揮されて、「あちら側」の華やかさが素直にまぶしく、素敵なものに感じられる一曲になっています。
しかも華やかさの中にわずかな翳りもはらませるあたり、どうしようもなく本物の「あちら側」です。

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ところで、これは歌詞の話なんですけど、この歌の

「びっしりー、びーっしーりーーー♪」

っていう部分。あそこは、言語感覚的にちょっとヘンではないのか。という意見が多いようです。
たしかにキラキラした要素の中に、あそこだけ異質なものがまざっているような感じはありますが、阿木耀子さんの他の仕事を考えると、やはりあれは相当意識してあの異質感(びっしり)をあそこにもってきたのではないかという気がします。華麗なままつるりと流してしまわない仕掛けというか、引っかかる部分をあえて作ったのではないかと。

それとも、詩人である阿木さんにとって「びっしり」というのは、通常の人が思うような生々しさやホラー感を伴うものではまるでない、まったく別のイメージを喚起させる表現だったりするのかも。

「めまい」 石野真子(1980年)

アイドル時代の真子ちゃんを語るにおいて、内心苦々しく思いつつも、やはりあの
「長渕」
の存在を避けて通るわけにはどうしてもいかないのでした。
むしろ彼女の、少なくとも結婚引退前までの作品は、ずばり「長渕登場前/登場後」で大きくその色を変えたと言ってもいいでしょう。そしてそのターニングポイントとなったのがこの「めまい」です。

それまでも真子ちゃんは、ちょっと他に比較する対象が見つけられない、ある種ワンアンドオンリーなエロスを感じさせるアーティストでした。
「この娘だけは芸能界にあっても汚れていないに違いないッ」と見るものを信じさせずにはおかない、胸震わすほどのけなげなムードを備えつつも、それは必ずしも「聖女」のそれではなく、きっちり性的なものも感じさせていたという記憶があります。
デビュー曲「狼なんか怖くない」にしても、よくよく聴いたら性的な世界の入り口に立ちながら

「でも、あなたならOKよ?」

ぐらいのことを言っている歌なわけですし、あの童謡めいた「ワンダー・ブギ」でさえ、彼女自身の子供っぽさを売りにしているものでは決してなく、逆に子供たちに対する「歌のおねえさん」的、清冽なエロスが強く印象に残ります。

けれどそうした、彼女が漂わせる「いけない気配」というのは、あくまでも厚い扉の向こうからほんのりのぞく、つかみどころのないもやもやした何かだったわけです。ある日彼女の世界に「アイツ」が現れるまでは……。

長渕との交際が明らかになるのと前後して発表された、この「めまい」。それまで厚い扉の向こうにあった、彼女のつかみどころのなかった「いけない気配」は、ここではっきりと「恋(含む性愛)」という形を得て、扉の向こうから生々しく飛び出してきます。
これまではリアルなようでいても作り物の物語世界を演じてきた真子ちゃんですが、「めまい」ではすっかり一人称の「私」が彼女自身であるかのようで、聴いているこちらがどぎまぎしたものです。
「私はもうあなたに夢中よ」という部分では、「あなた」ってのはやっぱり「アイツ」のことなのか……とどうしても思わされてしまい、何とも複雑な気持ちになったのをよく覚えています。

とにかくこの歌、今になってあらためて聴くと、走りだした官能というものを五感に訴えかけてくる歌詞のクオリティの高さに、「めまい」というより震えが来るほどです。
「Tシャツのままで泳ぎたいほど」といって、抑えられない恋情を皮膚レベルで鮮烈に焼きつけたかと思うと、2番ではさらに

「あなただけが私のメロディー からだじゅう指ではじいてピアノにするの」

なんて、ちょっと自慰行為すら匂わせる部分も出てきたりして、でも響きはどこまでも詩的なので、思わせぶりないやらしさはまるでありません。

世間の耳目を集めた彼女の恋は、のちに辛い結末を迎えることになるわけですが、「長渕以降」の彼女がなぜあれほどまで私の心を掴んで離さなかったのかと思うと、それはやはり
「将来の悲劇を含みつつ、なお走りだす官能」
というものに、子供ながら抗いがたい魅力を感じていたからなのではないかと思ったりもするのでした。

「リップスティック」 桜田淳子(1978年)

桜田淳子の、歌手としての「ずばりの立ち位置」って、実はこの歌だったのではないかと今さら気がつくのです。
思えば桜田淳子って不思議なキャラクターです。とてつもない陰を隠し持っていそうで、それゆえ真に芸能人っぽい感じがします。
白いお帽子をかぶって、清純で健康的な「天使」のイメージで押していたアイドル期の楽曲は、どれもポップでよくできた作品ばかりではありますが、たとえば他のアイドル(百恵ちゃんでも石野真子でも誰でもいいのですが)の作品が、その時々の本人の成長や心の揺れ具合といったものを如実に映し出してしまっているのに対し、淳子の一連の楽曲にはそうしたものがまったく透けて見えません。
実際は精神的にすっかり成熟しきった少女によって、見事に「演じられた」作品という印象があります。

しかし内側に「イン」(陰でもあり、ひょっとして淫なのかもしれません)を隠し持っているからと言って、「しあわせ芝居」や「化粧」などの中島みゆき作品まで行ってしまうと、逆にどうもバランスが悪いようで落ち着かないのでした。
はすっぱな調子で「バカだねー、バカだねー」と連呼してみせる淳子……。気の弱い私には何かものすごいものを見せられているようで、ちょっと直視に耐えがたいものがありました。

「リップスティック」は、作詞・松本隆、作曲・筒美京平という、当時の歌謡界では珍しくも何ともない、黄金ペアによる作品です。
でも淳子がこのペアの歌を歌ったのは、シングル曲ではこれだけだったのではないでしょうか。
惜しい気がします。見事にはまっているからです。
華やかなルックス、そしてリズム感という、表向きにぱっとわかる彼女の特長は、筒美京平さんのメロディーによって存分に活かされ、「陰」の部分も、孤独な悲しみに都会的な味付けをほどこした松本隆さんの歌詞によって、生々しくない形でさらりとにじみ出しています。
ちょうどいい。とにもかくにも「ちょうどいい」んです。
これとて、老獪な少女によって見事に演じられた「作品」のひとつであることには変わりないのかもしれません。けれどなぜかこの「リップスティック」にだけは、他の楽曲がついぞにおわせることのなかった、「その時の桜田淳子」というものがほの見えるような気がして、この路線でもうあと3曲ぐらいあってもよかったんじゃないかなーと、今となっては詮無いのですが、そう思わずにはいられないのでした。

「シクラメンのかほり」 布施明(1975年)

さてこのページは「昭和の名曲について語る」という意図でやっているわけではなく、あくまでも冒頭に書いてある通り、「その時々に脳裏に浮かんでしまった曲」というのを脈絡なく取り上げては何かひとこと書き添える、という感じで続けております。
ですからして今回のようなこういう、歌謡曲の名曲としてすっかり殿堂入りしてしまってるような、言ったら「大味」(あくまでも存在感が、ですが)な作品というのは、むしろここの性質として避けたいかなーといったところだったりもするのです。
だがなあ……。何ヶ月か前に俺シナプスにぴぴっと引っかかって以来、この楽曲の特異性についてちょっと看過できない気分になってしまいました。
ちなみに、あえて言うのも何ですが、いくら俺シナプスにひらめいたからと言って、好きでもない曲、自分にとって愛を持って語るに値しない曲は決してここに昇ってくることはありません。頭の中でいくら「だんご三兄弟」が流れて止まらなかったとしても、それは、書く気にはなれません。華麗にスルーです。
前置きが長くなりましたが「シクラメンのかほり」。あらためて歌詞を見直すと実に不思議な世界であることに気づかされます。
悲しげな旋律とあいまって、全体的な印象はまさしく晩秋を思わせるメランコリックなものなのですが、よくよく聴いてみると歌詞に出てくる男女、実は普通に幸せそうです。男性側が恋人を見る視線はどこまでも愛に満ちていて、どっちかと言えばラヴラヴだったりはしないかと。
しかし「特異性」と言ったのはここなのですが、深い愛と信頼があるにもかかわらず、二人の世界はこの曲が与える第一印象通り、どこかブルーなのです。爆笑したりとか絶対にしなさそう。けれども決定的な不幸があるわけでも、これまた絶対になさそうです。
しあわせなんだけどブルー(はっ!「敏いとう」……?)。そんな「年月を経たカップルの有りよう」などという複雑な情景を描き出しておきながら、そんなものが歌謡曲として成り立ち、あっちこっちで流れてついにはレコード大賞まで獲ってしまった、というのは、もう離れ業と言ってもいいのではないかと思ったわけです。おっ小椋佳……!!!
この歌が大流行した当時は子供だったので、「ふうん、真綿色のシクラメンってのがあるんだ」とそんなところしか気にしていませんでしたが、大人はとっくにそんなことわかってたのかなとも思ったりします。「だからヒットしたんじゃネーか」ってところなのでしょうか。
今さらそんなことで何を興奮してるんだって感じか。やー、他にもそんなのが実は山ほどあるのかも。ある日気がついたらまたここで大騒ぎするかもしれません。